今回は仲間由紀恵さんの旦那にも関わらず、不倫的な感じで世間を賑わせてしまった田中哲司さんについてお伝えします。
田中哲司さんはバイプレイヤーとして世の中で注目を集めていますが、イマイチ若い頃の活動は不明です。
以下では田中哲司さんの学生時代と役者になったきっかけ的なところを中心に見ていきたいと思います!
目次
田中哲司のプロフィール
生年月日:1966年2月18日(57歳)
出身地:三重県鈴鹿市
出身校:日本大学藝術学部演劇学科(偏差値52.5)
身長:182cm
血液型:A型
配偶者:仲間由紀恵
職業:俳優
事務所:鈍牛倶楽部
田中哲司さんの実家は三重県鈴鹿市でF1で有名の町の出身。
その地元の海星高校を卒業後、音響系の専門学校に行った後、日本大学芸術学部演劇学科に入学。
その大学でキャンプスライフを楽しみながら演劇の活動をしてました。
大学卒業後、蜷川幸雄さんや長塚圭史さんなどが演出する舞台に出演します。
でも舞台だけでは満足できずテレビとかに出演したくなり、無理言って今の事務所の鈍牛倶楽部に所属。
そこからたくさんの映画やテレビに出演し、今では無くてはならない名バイプレイヤーとして活躍してます。
田中哲司さんは俳優の仕事がないと狂いそうになるくらい演じることが好きと言ってます。
その気持が演技に入り込み、嫁の仲間由紀恵さんとはじめて共演した2007年のドラマ「ジョシデカ」で仲間さんといい感じになります。
いい感じというのは仲間由紀恵さんが田中哲司さんの役に打ち込む姿が格好良すぎ、と感じたそうです。
そのため周囲の反対がありながらも、仲間由紀恵さんと田中哲司さんはめでたく結婚するのです。
大雑把に田中哲司さんの若い頃の高校卒業から舞台俳優になり、テレビや映画俳優になって、仲間由紀恵さんと結婚したことまでみました。
以下ではもう少し田中哲司さんの若い頃を詳しく見ていきます。
田中哲司の若い頃は軟派!?
引用:https://twitter.com/postplic/
田中哲司さんは、鈴鹿サーキットで有名な三重県鈴鹿市で誕生します。
一人遊びができる幼少期
両親と兄姉の5人家族の末っ子です。
そのため可愛がられて育ったので引っ込み思案の子供でした。
引っ込み思案の性格になったので部屋で小説を読んだり絵を描くことに夢中になり、一人遊びができる子供になりました。
小説を読むのが好きな子供だったため、進路を考えるときに俳優という選択肢もあったのでしょう。
小説を読んでいるときに、その小説の主人公になって子供の頃から役を演じていたかもしれません。
中学校はキリスト系
小学生くらいまでは、そのような一人遊びに没頭していました。
その後、中学星になった田中哲司さんは三重県四日市市の「私立海星中学校」に入学します。
現在の偏差値は48程度です。
キリスト系の学校なのでいろいろと規律が厳しいようですが、個人の安全を真剣に考えてくれるようで安心して通える学校のようです。
高校から軟派がはじまった!?
田中哲司さんは海星中学校を卒業後、エスカレート的に海星高等学校に進学します。
この学校は部活動が盛んで、帰宅部は基本ダメなようです。
田中哲司さんは女子に人気のサッカー部に入部します。
この頃から女性からモテることが必要不可欠だったかも知れません。
どうして女子にモテたかったと決めつけるのは、仲間由紀恵さんと結婚したのにその後不倫してしまったことが挙げられます。
仲間さんと結婚する前から女性関係がいい感じでプレイボーイ的なところもあったみたいです。
なのでモテたかったといいました。
しかし、その海星高校のサッカー部はレベルが高かったので1週間くらいで退部したのです。
人気のサッカー部ですが、ツラいのは我慢できなかったのでしょう。
でも、なにかの部活に入るために思考し、ヨット部に入部することを決めます。
決めた理由のひとつとして、沖に行って帆を下ろしてのんびりできたからのようです。
当時を振り返り、田中哲司さんはこんなこと言ってます。
「ちょっと幽霊部員に近かったけど」
「クジラが迷い込んだとかたまにあって、見に行ったりとか。」
「で、レースに出た覚えがない(笑)。」
「あと、南高かどこかの女の人がいて、一緒にやってるのが楽しかった。」
高校生なので別の学校の女子と戯れるのはいいんですが、何かにつけて女性が登場します。
ヨット部に入った理由は、部活が緩かったことと別の学校の女子がいたからと思われます。
簡単だから国語得意科目!?
田中哲司さんは勉強の中で一番好きな科目は現代国語のようです。
その理由として勉強っぽくないところ、と語っています。
また受験勉強でも現代国語が得意だったそうです。
このことについて田中哲司さんは言います。
「だって小説を読んで、でしょ。答えも『それ、ほんとにそうか?』っていう感じで。そういうフワッとした感じが好きで、現国が好きだった。」
数学などは答えがあるのである意味難しいです。
でも国語などは曖昧でも正解的なところもあるので楽なので好きのようです。
子供の頃から小説を読んでいたので、現代国語については慣れていたのかも知れません。
また、高校時代の国語のの先生の授業は楽しかったと言っています。
高校時代の田中哲司さんは「格好いいことに飛びつき、女子に出会え、答えが曖昧な現国が好きだった」
人は基本、楽したいです。
田中哲司さんの高校時代のエピソード見ていると、その後の仲間由紀恵さんとのヤバい行動が予測できそう。
クレープがきっかけで専門学校から大学へ
ゆっくりした高校生活を終えた田中哲司さんは、その後の進路として地元、三重県を離れ上京します。
東京に移り住んだ理由は専門学校に通うためです。
その専門学校というのは音響関係の学校。
高校時代にヨット部に入部しましたがコレといった目標があったわけではなく、特別やりたいことはなかったのです。
でも高校を卒業して東京に行けばやりたいことが見つかるとおもっていたようです。
そもそもヘビメタ音楽は好きだったこともあり音響の専門学校に進学したのです。
専門学校時代にはクレープ屋でバイトをしながら専門学校生活を楽しんでいましたが、専門学校は中退することになります。
その理由は「クレープ屋でのバイト仲間の大学生がの楽しそうに見えたから」というものです。
そういった大学生の影響もあり、専門学校を中退し大学生になるために1年間受験勉強を始めます。
そして日本大学芸術学部演劇学科に受験し合格。晴れて大学生になったのです。
ただここまでの田中哲司さんを見てると人に影響され過ぎ感が半端ないです。
また、どうして日本大学の演劇学科に入学したかですが、それは俳優の小林薫さんに影響されたと言います。
その当時、小林薫さんはJRA(競馬)のCMに出演しており、それをみた田中哲司さんは「格好いい」と思ったのです。
そして日大演劇学科へ。
当時のことを田中哲司さんはこう言ってます。
「役者になろうっていうきっかけの記憶が無くて…。」
「なんとなく芸術方面にっていう思いはあった。」
「映画学科の演技コースには行きたかったんだけど、2次で落ちて。文芸学科も受けてたりするんだけど、『俺、モノ書けるのか?』って(笑)。」
「ホントのこと言うと小学校の頃から絵が大好きだったんだけど、なんで美術学科を受けてなかったのか…。
「たぶん受験日が重なってたとか、そういうことだと思うんだけど。」
「だからいい加減なもんだったんだよ。まだ定まってなかった。」
このコメントから、この頃の田中哲司さんは進路不明だったようです。
先生に褒められて役者の世界に
日大の演劇学科で勉強してましたが進路が曖昧だった田中哲司さん。
しかし日大で勉強しているうちに、進路が見えてきました。
その要因となったのが演劇の授業で大学の先生に褒められたことです。
それが嬉しかったのか、これ以降本気で役者の道に進むことを決めます。
専門学校時代までのんべんだらりんと生活してきたようですが、先生に褒められたことで道ができたのです。
褒められたことで承認欲求が満たされた田中哲司さんはこんなこと言います。
「中退して役者になる」
まるでワンピースのルフィの「海賊王にオレはなる」的な感じでした。
しかし、中退することはやめました。
それは、三重の実家で地道に働く両親の姿を知っていたからです。
仕送りもしてもらっていたようなので、ワガママは言えないと思い大学を卒業することは決めたのです。
大学卒業後本格役者に!
大学を卒業した田中哲司さんは、嬉しかった大学時代を糧に仲間と劇団を旗揚げします。
さらに、有名演出家・蜷川幸雄さんの舞台や、長塚圭史さんの舞台に出演しお芝居をみっちり学びます。
舞台中心で役を演じていた田中哲司さんの欲は止まらずこんなことを思ったようです。
「もっと有名になりたい」
有名になるためには事務所に所属したほうがいいと思った田中哲司さんは、事務所を探しますがなかなか決まらなかったのです。
そんな中、田中哲司さんは好きなある作品に出会うのです。
その作品というのが、俳優・光石研さんが主演していた「Helpless(ヘルプレス)」という映画です。
主演は浅野忠信さんでヤクザ系の映画。いろいろとゴタゴタが起こる映画です。
このゴタゴタを演じた光石研さんの演技の映画をみた田中哲司はあまりに感動し全身に衝撃が走ったと言います。
Helplessの意味は「無力」など。
田中哲司さんはなかなか事務所が決まらない「無力」さに主人公を重ね合わせたのかも知れません。
その映画をみてから田中哲司さんは光石研さんの所属事務所「鈍牛倶楽部」に入りたいと思ったのです。
光石研さんも事務所の鈍牛倶楽部もしらない田中哲司さん。
知人に鈍牛倶楽部の社長に自分の舞台を見てもらいたいと何度もお願いしたそうです。
その積極性がみのり、鈍牛倶楽部の所属俳優となったのです。
その当時の田中哲司さんの年齢は30歳となかなかの年齢。
この鈍牛倶楽部に所属することでテレビや映画の仕事も増え、7年後の2003年のドラマ「顔」で仲間由紀恵さんと出会います。
そして出会いからおよそ11年後の2014年9月に仲間由紀恵さんと結婚するのです。
運命はスゴすぎる。
田中哲司の若い頃は野原ひろし!?
今までは田中哲司さんの経歴的な感じで見てきました。
この経歴の背景には田中哲司さんのイケメンぶりも発揮されていたようです。
世間は田中哲司さん若い頃をみてこう言います。
「色気があって素敵!カッコイイ!」
画像をみると清潔感があって真面目そうです。
一見、クレヨンしんちゃんのお父さん、野原ひろしさんに雰囲気が似てます。
今は年齢的に渋い感じの田中哲司さんですが、若い頃はサラリーマンの課長みたいな感じでした。
上の画像は、真面目な雰囲気と悪い感じ、さらに刑事的なしつこさと男性の色気が混ざったいい画像。
田中哲司さんの若い頃の経歴が一目でわかりそうです。
発狂しそうで実家を継がなかった!?
田中哲司さんは今は俳優としていい感じの地位を確立しています。
しかし、若いときは家業を継ごうと考えていた時期もあったのです。
その家業というのは「造園業」。
お父さんがいい感じで造園業を営んでいたのですが、田中哲司さんは継ぐことなく俳優の道に進みました。
その理由としてこんなことを田中哲司さんは言ってます。
「仕事が数ヶ月も空くと気が狂いそうになる」
俳優の仕事をしないで実家の造園業を継いでいたら、田中哲司さんは現在どうなっていたのか、と気になります。
嫁の仲間由紀恵さんが田中哲司さんに惚れた理由の一つとして「芝居に対する真摯な態度がすごい」と言ってます。
このことからも田中哲司さんは演じることが大好きなようです。
ちなみに、実家の造園業は9歳上のお兄さんが継いでいるので、実家的にはなんとかなっているようです。